北九州市議会 2019-03-07 03月07日-04号
書籍、北九州の逆襲では、古い北九州のイメージとして、公害の町、鉄冷えの町、通過都市、修羅の国、荒くれ者の町、文化がない町から、見識ある人々の間で、環境都市、再生都市、アジアの玄関口、観光、交流都市、生活天国、映画の町とのイメージ転換が起こりつつあるとされています。両面歩き打ち太鼓、歩行打ちが評価され、太鼓芸として国内初の小倉祇園太鼓の国無形文化財指定も観光振興の好機です。
書籍、北九州の逆襲では、古い北九州のイメージとして、公害の町、鉄冷えの町、通過都市、修羅の国、荒くれ者の町、文化がない町から、見識ある人々の間で、環境都市、再生都市、アジアの玄関口、観光、交流都市、生活天国、映画の町とのイメージ転換が起こりつつあるとされています。両面歩き打ち太鼓、歩行打ちが評価され、太鼓芸として国内初の小倉祇園太鼓の国無形文化財指定も観光振興の好機です。
我々の年代というのは、バブルの崩壊より少し前、もともと北九州は鉄冷え等もあって、地元での仕事がなくて、東京はバブルに浮かれて、みんなそっちに出ていくというような時代でした。私も例に漏れず、そういった東京本社の企業に就職をするんですが、私は運がよかったのか、30歳ぐらいのときに戻ってまいりました。
鉄の町北九州は、1970年代の鉄冷えと呼ばれた製鉄業の衰退で若者が市外に流出し、高齢化が急速に進みました。高齢化率は全国20政令市中、最も高い25.7%、2035年には34.1%に達する見込みです。
そして、急激に円高が始まって鉄冷えと続くわけであります。
今日に至るまでの半世紀の間、本市は深刻な公害問題や鉄冷えと言われる産業構造の変化といったさまざまな困難に直面してきました。そのたびに、市民、企業、学術機関、議会、行政がスクラムを組んで困難に立ち向かい、乗り越えてまいりました。この経験が本市の強みであり、次の半世紀に伝えていかなければなりません。
北九州市はこの50年間で公害の克服、鉄冷え不況からの脱却、マイタウン・マイリバーによる紫川のクリーン化、環境ビジネスなどいろいろな取り組みを行ってきました。その中で、よくも悪くも問題になっていたのは、5市合併の影響というキーワードです。しかし、現在は旧市の垣根を越えて、北九州市民として一体感を持てるようなまちづくりが求められているのではないでしょうか。
しかし、振り返りますと、本市はこれまで公害あるいは鉄冷えなど幾多の試練を市民、企業、行政が一丸となって克服してきた本市の誇るべき歴史があります。本市の新しいまちづくりビジョンは、元気発進!北九州プランとしてまとめられ、議会の御承認をいただいて第一歩を踏み出したところでありました。また、安定した行財政基盤を構築しなければ、この経営プラン、その収支改善を着実に実施しなければ財源が確定いたしません。
北九州市産業雇用戦略では、モノづくり産業の振興として、知的基盤の充実や新たな成長産業の集積、地域企業の競争力の強化等を掲げていますが、例えば鉄冷えにより衰退した本市の歴史や、景気の波に大きく左右される自動車産業を見ても、特定の産業に偏ることは極めて危険ではないでしょうか。
しかしながら、現在は鉄冷えを初めとした本市を取り巻く社会経済状況が大きく変化したことや、高齢化の急速な発展などにより、以前の活気が大きく失われている状況であります。
平成20年度に行われた市政モニターアンケートでは、市外の人から言われる本市のイメージについてもアンケートを行っており、治安が悪い、鉄冷えといった消極的なものが多い結果となりました。また、同アンケートの都市機能の評価でも、治安がよいという評価は大変低いものでした。 現在、本市では、交通事故の発生を防止するために、街灯の整備を行い、道路空間における夜間の明るさを確保しています。
しかし、本市はかつて鉄冷えなど幾多の経済危機に見舞われてまいりましたが、そのときも市民、企業と行政が一丸となって克服してきた誇るべき歴史があります。今回も私自身決して悲観することなく、夢と希望にあふれた未来に向けまして新たな第一歩を元気よく踏み出し、この難局に立ち向かっていく決意であります。議員各位の御理解と御協力をよろしくお願い申し上げたいと思います。
本市は、これまでも鉄冷えなどの経済状況の危機を官民一丸となって克服してきました。決して悲観することなく、この難局からいち早く立ち上がり、夢と希望にあふれた未来に向けた確かな一歩を元気よく踏み出す決意であります。 以上の点を踏まえ、平成21年度当初予算は、厳しい財政状況の中、新しい基本構想に基づくまちづくりの実現を目指し、新たな目標への出発となる未来創造元年予算として編成しました。
このルネッサンス構想を振り返りますと、当時は鉄冷えという地域経済がかつてなく厳しく落ち込んだときでございまして、本市の経済社会をいかにして再活性化させるかという大きな問題意識、背景のもとに策定されたものでありました。そのため、都市の将来の発展を支える都市のいわば骨格づくり、経済の再活性化に力点が置かれていたのは事実であります。
ちょうど当時厳しい鉄冷えと言われた構造不況の真っただ中で、何とか全国の1%のシェアを維持していきたいと、これが基本的な考え方でございました。 そこで、国の第四次全国総合開発計画、これはルネッサンス構想策定の1年前に、昭和62年に策定されましたが、この四全総におきましては平成12年の国内総生産を500兆円と予測しておりました。
前市長が就任された翌年の昭和63年は市制25周年に当たりましたが、当時の本市経済は鉄冷えに象徴されるように、どん底状態にあり、100万市民の気持ちも不安に駆られ、深く沈み込んでいました。そのような中、基本構想である北九州市ルネッサンス構想も策定され、100万市民の心を一つにする第1回わっしょい百万夏まつりの開催などを主要事業とする25周年記念事業が行われました。
一方で、本市はモノづくりの町として、これまで鉄冷え不況など非常に厳しい時代を経験してきております。若者に職を確保し、中小企業を守り、この北九州市民の所得を上げていくために、これからも元気なまちづくりということは非常に重要だと思っております。
末吉前市長は、就任後北九州市ルネッサンス構想を策定され、産業構造が変わり、鉄冷えとなり、元気のなかった北九州市の浮揚のため東奔西走し、大規模港湾や空港、高速道路など本市の発展に欠かすことのできない都市基盤の整備に努めてこられました。この行政手腕に対し、あなたは国会議員のお立場から熱いエールを送っておられました。
その市政についての基本的な考え方を改めて整理をいたしますと、末吉前市長は都市の再生、とりわけ鉄冷えなど不況のどん底の中で、産業都市として力強く再生するための知的基盤や物流基盤、そのインフラ整備を中心に主要プロジェクトと位置づけまして、産業・社会基盤の整備に全力を尽くしてこられたと思います。
振り返ってみますと、昭和62年、鉄冷えなどと呼ばれる中、就任早々北九州市の長期構想策定に着手をし、翌年の昭和63年に北九州市ルネッサンス構想を策定されました。この構想のもとで、重厚長大型産業にかわる地域経済活性化の基盤となる国際化、情報化、学術研究などを推進し、再生から浮揚へと導いてこられました。
卓越したアイデアと行動力で、就任当初鉄冷えと円高不況であえぐ本市をよくここまで支えていただき、そしてしっかりとした基盤整備を行っていただきました。そのことに対して心から敬意を表する次第でございます。 末吉市長が卓越したリーダーであることは、中央、永田町からも言われてきました。それは今から4年前、私が北九州青年会議所という団体で理事長をさせていただいたときのことでございます。